母著 思い出の記
( 関東大震災 体験 )
思い出の記 東京の巻 (私の)姉の夫の弟という人が東京でやっている医者。東京浅草清島町というところで立派な玄関のある家だった。家はなかなか大きく、玄関を入ると左は薬局、右は坪の内になって花や木など、すばらしい石燈篭もあった。 廊下に続いて診察所があり、その横に居間、その奥に3畳で窓のある部屋を私にあてられた。2階もいくつかの部屋があり、主人等は2階で、石ちゃん、高取の子も2階だった。 仕事は、食事の支度、そうじ洗濯、子供の守と色々あった。毎日の買い物も都会では御用聞きという人が毎日来る。味噌・醤油、酒など何でも届けてくれる。豆腐屋などの売り声も毎日聞こえてくる。 八百屋さんにはよく使いに行った。田舎者の私は、糸こんにゃくを「白たき」、ねぎは太くて長いものなど、おどろくことがよくあった。 石ちゃんは試験を受けて、今の明治大学へ毎日通うようになった。 だんだんなれて、奥様にくつしたのつくろい等も教えてもらい、今でも感謝している。 楽しいことといえば、時々買い物につれて行ってもらい奥様の在所の四谷でまんせいぱん(?)に乗り換えていった。帰りには「みつ豆」を食べさせてくれた。一度も口にしたことのないおいしさは、今でも忘れられない。 また ある日、千葉の稲毛という所へ海水浴につれて行ってもらった。ほんとうにうれしかった。何を着て言ったか覚えていないが思い出はつきない。 「外へ出るでない!」 と大きな声で言われ、タンスにつかまって立っていた。 本所の方から火事が出たとてだんだん大きくなり、夕方も電気はつかず水は出ず、おにぎりとお茶を持って、近所の人も上野の山へ避難した。 先生や奥さんは布団から着物の始末をして、どこかへ預けられたらしく、私はふみちゃんを負んでバスケット1個、中には財布などを持って、家の人について上野の山へ避難した。 そのころは、もうだいぶ暗くなり、人でいっぱいで場所を探してひとまず座った。先生は石ちゃんを連れて家を見に行かれた。空は真っ赤に焼けてものすごい光だった。皆、生きた心地はなかった。 「 もうだめだ。浅草から下谷にかけても火が飛んだ 」 と言われた。その夜はそこで一服。
( このあと、再度、東京への話があったが行くことはなかった )
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