母著 思い出の記
( 関東大震災 体験 )

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 60年も前のこととて、おぼろげのところもある。     昭和60年記( 
80歳ころ

思い出の記 東京の巻

  大正12年1月、数え18歳の正月、(愛知県)小垣江の姉の話で東京へ奉公に行くことになった。石ちゃん、高取の子とで東京へ行った。 

  その家は両親と兄夫婦、それにかわいい二三子という生まれて間のない子と、すぐ上の姉と私の大家族だった。

 (私の)姉の夫の弟という人が東京でやっている医者。東京浅草清島町というところで立派な玄関のある家だった。家はなかなか大きく、玄関を入ると左は薬局、右は坪の内になって花や木など、すばらしい石燈篭もあった。

 あくる日から私の生活が始まった。家にいる時何もせず暮らしていた者には、都会の水は冷たかった。夜になるとさみしくなり西の空に向かって父母兄弟の無事を祈って手を合わせた。

 ご主人も奥様もやさしい人で、私を「月ちゃん」と呼んでくれた。先生(ご主人)は大きな病院に勤めて、夜、家で診察しておられた。

 廊下に続いて診察所があり、その横に居間、その奥に3畳で窓のある部屋を私にあてられた。2階もいくつかの部屋があり、主人等は2階で、石ちゃん、高取の子も2階だった。 

 仕事は、食事の支度、そうじ洗濯、子供の守と色々あった。毎日の買い物も都会では御用聞きという人が毎日来る。味噌・醤油、酒など何でも届けてくれる。豆腐屋などの売り声も毎日聞こえてくる。

 八百屋さんにはよく使いに行った。田舎者の私は、糸こんにゃくを「白たき」、ねぎは太くて長いものなど、おどろくことがよくあった。

 石ちゃんは試験を受けて、今の明治大学へ毎日通うようになった。

 だんだんなれて、奥様にくつしたのつくろい等も教えてもらい、今でも感謝している。

 楽しいことといえば、時々買い物につれて行ってもらい奥様の在所の四谷でまんせいぱん(?)に乗り換えていった。帰りには「みつ豆」を食べさせてくれた。一度も口にしたことのないおいしさは、今でも忘れられない。

 また ある日、千葉の稲毛という所へ海水浴につれて行ってもらった。ほんとうにうれしかった。何を着て言ったか覚えていないが思い出はつきない。

   … 略 …

  そして、あの大きな恐ろしい日が来た。大正12年9月1日11時58分。マグニチュード7.9.東京市の約半分を焼き尽くした関東大震災。焼死者4,400人  … 略 …

  昼の支度をしてすぐ食事という時、突然大きくゆれ、棚タンスの上の物は全部落ち、先生が

「外へ出るでない!」

と大きな声で言われ、タンスにつかまって立っていた。

  ゆれが止んで外へ出てみると、どこの家も瓦は落ち、壁もくずれ、屋根は薄い板が風にへらへらしていたのが忘れられない。近所ではお寺がいくつか倒れた。ガスも水道も止まり奥さんと全部のごはんをおにぎりにして、先生が熱海で買ってこられた梅干を入れて作った。

本所の方から火事が出たとてだんだん大きくなり、夕方も電気はつかず水は出ず、おにぎりとお茶を持って、近所の人も上野の山へ避難した。

先生や奥さんは布団から着物の始末をして、どこかへ預けられたらしく、私はふみちゃんを負んでバスケット1個、中には財布などを持って、家の人について上野の山へ避難した。

そのころは、もうだいぶ暗くなり、人でいっぱいで場所を探してひとまず座った。先生は石ちゃんを連れて家を見に行かれた。空は真っ赤に焼けてものすごい光だった。皆、生きた心地はなかった。

 先生は戻ってきて

「 もうだめだ。浅草から下谷にかけても火が飛んだ 」

と言われた。その夜はそこで一服。

 あくる日、四谷(奥様の実家)は大丈夫だから一時行くことになり、まだ両側が熱いような所を通って四谷に向かった。

 奥様のところは無事でよかったとて、皆さんで喜んでくれ、そこでの生活が始まった。

 2日過ぎたころ、(愛知県の生家)吉浜の兄が小垣江の兄と高取の石ちゃんの兄といっしょにやって来た。乗り物はなく難儀をしてきた話を聞かされ、よく来てくれたとうれしかった。
 兄が一度帰ったほうがよいと言うので、帰ることにした。
 汽車が思うように動かず、新宿の駅の窓から入れてもらい身動きもできないほどだった。ありがたいことには所々の駅で炊き出しをしておにぎりを渡してくれた。竹皮に包んで2個くらいずつでおいしかった。窓は閉まらず、皆、黒い顔でおにぎりを食べた。
 名古屋の駅について、駅前広場でもやはりお茶やおにぎりのサービスがあった。こうして吉浜に無事着いた。

     以下略  

( このあと、再度、東京への話があったが行くことはなかった )

                   201059日 母一周忌法要にて

                     著 石川 つきゑ  発行 達男


※ 字が大きいのは 一周忌参加者の平均年齢が高めだったので 大きく印刷したせい。